越後国域確定1300年記念事業として「遺跡が語る古代のにいがた-越から越後・佐渡へ-」と題し、企画展を開催しています。展示では古墳時代から平安時代にかけての遺跡・遺物を通して、越後国域が確定した頃の社会の変化を概観します。展示品は新潟県教育委員会が発掘調査した遺跡から、各時代を代表する遺物を選んで展示しています。この機会に、先人が残した貴重な遺物の数々をご覧いただき、新潟県の歴史と文化を肌で感じてみてください。
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6 | 古墳時代の越後・佐渡 |
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5 | 越国から越後国・佐渡国へ 越後国・佐渡国の役所 |
4 | 奈良・平安時代の交通制度 祭祀 |
3 | 奈良時代のもの作り |
2 | 奈良時代の村 |
1 | 越後国東大寺領「石井庄」 施釉陶器の登場 |
古墳時代になると、地域の有力者が巨大な墓「古墳」を造り、その大きさや形、副葬品の種類や量などによって権力を表現しました。
古墳の分布は、大和王権の北方支配の様子を示しており、、県内では、古墳時代の初めには日本海側から、後半には内陸の上野・信濃(現在の群馬県・長野県)から勢力を伸ばして来たことがわかります。
飛鳥時代(7世紀)の中頃、大和王権は越国の北端にあたる阿賀野川以北の地域に渟足柵・磐船柵を設置して、北方の蝦夷に対する最前線基地としました。
この蝦夷政策の進行と律令制導入の過程で、越国は越前・越中・越後・佐渡国に分立し、徐々に国域が定まっていきました。
近年、県内では文字資料(木簡・墨書土器・漆紙文書)の出土が相次いでいます。これらの研究から、越後国では辺境の陸奥・出羽国と同様、国司(国の行政官)全員が国衙(国の役所)に居るのではなく、国司の四等官(守・介・掾・目)が国内の官衙(役所)や城柵に分かれて、政務を執り行っていたことが分かってきました。
円面硯 ・ 墨書土器 |
漆紙文書 |
中央政府は、政令の伝達や政府への報告を速やかに行うため、京と諸国の国府を結ぶ7つの幹線道路(北陸道・東山道・東海道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)を整備しました。幹線道路には、駅使(公の使者)に馬や食料を提供するため、30里(約16㎞)ごとに「駅」を設け、駅馬を置きました。
駅家村木簡 |
壺鐙 |
祭祀具 |
祭祀具 |
古墳時代の中頃(5世紀)、灰色で硬い焼き物「須恵器」を作る技術が朝鮮半島から日本に伝わりました。新潟県でも飛鳥時代の終わり頃(7世紀末)に須恵器が作られるようになりました。須恵器は、小型品はロクロ、中・大型品はロクロと叩き締めによって形を作ります。須恵器を焼く窯は斜面に溝を掘り、アーチ状の粘土の屋根をかけたもので、1,200℃くらいの温度で焼かれました。
須恵器作りからやや遅れ、奈良時代には鉄や塩も新潟県で作られるようになりました。鉄は海浜や川原にある砂鉄を材料とし、木炭を燃料にして作りました。塩は濃縮した海水を煮詰めて作りました。
鍛冶関連遺物 |
漆加工関連遺物 |
古墳時代は家が数軒程度の小さな村が大半でしたが、飛鳥~奈良時代初め(7世紀~8世紀初め)には、家が数十軒もある大きな村が出現しました。聖籠町山三賀Ⅱ遺跡は、その典型的な例です。2~4軒程度の家がいくつか集まって村を作っています。近くに水田はなく、家から離れた所に耕作に行っており、収穫した米は村人が共同で管理する倉庫(米倉)に納めて居たようです。
奈良・平安時代の村を発掘調査すると鋤・鍬先や鎌、田下駄などの農具のほか、漁網用の土錘、小型の弓や鉄の鏃などの狩猟具、斧や糸巻・紡錘車・コモヅチ(編み物の木錘)など、いろいろな道具が出土します。これらの生業具から、農業の他にいろいろな仕事が行われていたことがわかります。
農耕具 |
狩猟具 |
上越市岩ノ原遺跡からは、「石井庄」・「石庄」と墨で書かれた土器が出土し、753年に上越地方に成立したことが記録として残っている、東大寺領「石井庄」の庄所(管理施設)であることが分かりました。遺跡からは、建物や井戸、大型倉庫が見つかっています。
奈良時代になると、飛鳥時代に中国からもたらされた唐三彩を模倣した奈良三彩が奈良周辺で作られます。また、平安時代になるとこの技術を応用した緑?陶器や、草木灰を釉薬とした灰釉陶器が愛知県周辺で作られ、日本各地に流通しました。釉薬の掛かった焼き物(施?陶器)は7・8世紀には限られた人だけが使っていましたが、9・10世紀には村の中の有力者も使用するようになりました。
墨書土器 |
施秞陶磁器 |