平成20年度に(財)埋蔵文化財調査事業団が発掘調査した遺跡の出土品と写真パネルを展示しています。この機会に、先人が残した貴重な遺物の数々をご覧いただき、新潟県の歴史と文化を肌で感じてみてください。
なお通年で「国指定史跡 古津八幡山遺跡」(新潟市所蔵)の展示も行っています。
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1 | 国指定史跡 古津八幡山遺跡 |
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2 | 長割遺跡 (縄文時代中期) |
3 | 長割遺跡 (縄文時代後期) |
4 | 山口遺跡 (弥生時代前期~中期) |
5 | 荒町南新田遺跡 (飛鳥時代) |
6 | 荒町南新田遺跡 (中世) |
古津八幡山遺跡は新潟県北部に位置し、信濃川と阿賀野川に挟まれた丘陵上に立地する弥生時代後期の大規模な高地性環濠集落(こうちせいかんごうしゅうらく)です。 南北400m、東西150mの範囲から、環濠・竪穴住居・土坑(どこう)・方形周溝墓(ほしゅうこうぼ)・土器棺墓(どきかんぼ)・前方後方形周溝墓(ぜんぽうこうほうがたしゅうこうぼ)が検出されました。環濠は断続的ですが、二重に配置され、深さ約2mです。竪穴住居は大部分が環濠内部や条溝で区画された丘陵頂部にあり、内環濠に囲まれた丘陵最頂部には前方後方形周溝墓があります。方形周溝墓は環濠の外側に位置し、主体部から鹿角装鉄剣(ろっかくそうてっけん)や、アメリカ式石鏃せきぞくが出土しました。出土遺物は北陸系・東北系・両者折衷の在地系の3系統の土器が共存し、北陸地方中西部、東北会津地方とつながりをもっていたことがわかります。 弥生時代後期、高地性集落が日本海側にも点々と認められるようになり、本遺跡は北陸系高地性集落として現在のところ最北に位置し、西日本を中心とした社会変化の影響がこの地域にも及んでいたことを示しています。 古津八幡山古墳は古墳時代前期のもので、墳丘(ふんきゅう)は約60mの2段築成の円墳で北側に造り出しを持ち、周溝が巡ります。現在分かっている古墳としては新潟県内最大規模です。 古津八幡山遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての社会情勢やその変遷を考える上で重要であるとして、平成17年7月14日に約11.6haが国指定史跡に指定されました。 ※展示資料は、新潟市教育委員会所蔵資料です。 |
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弥生土器 |
石鏃・石錐・鉄剣・鉄鏃 |
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弥生土器 |
礫石(つぶていし) |
長割遺跡は、三面川(みおもてがわ)の支流に当たる門前川(もんぜんがわ)右岸の自然堤防上にあります。発掘調査により、平地式(へいちしき)円形建物や竪穴建物(たてあなたてもの)、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)、袋状土坑(ふくろじょうどこう)、土坑墓(どこうぼ)などが多数見つかり、膨大な土器や石器などが出土したことから、縄文時代中期から縄文時代後期前葉(約3,700~3,800年前)の大規模なムラであったことが分かりました。 遺構などの主な時代は縄文時代後期が主体ですが、中期の土器も確認しました。 |
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深鉢 |
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深鉢 |
深鉢 |
遺跡の主体である縄文時代後期について紹介します。151棟もの平地式円形建物が見つかりました。多くは直径5~6mで、屋根を支えた柱穴が円形・楕円形に配列されており、中央には炉(ろ)を持つものが多いことから、日常の住居と推定しています。また、掘立柱建物の中には直径約1.6mの柱穴を持つ長さ約18m、幅5mの建物が2棟見つかり、いずれも県内で最大規模であることが明らかとなりました。これらの遺構の配置は南北で異なり、南側には掘立柱建物が、北側には穴倉と考えられる袋状土坑が集中しており、ムラの中で場の使い分けがされていたことが分かりました。 遺物には、土器や石器などの生活道具のほか、ムラの長(おさ)が身に付けたと考えられる大珠(たいしゅ)(ペンダント)、当時の食生活を復元できる動物の骨や植物の種実などが多数出土しており、縄文人の暮らしを物語る情報量の多い遺跡と言えます。 |
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後期の出土遺物 |
注口土器 |
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深鉢 |
線刻礫 |
山口遺跡は、東に五頭連峰(ごずれんぽう)を望む阿賀野川(あがのがわ)の右岸、沖積地(ちゅうせきち)の自然堤防上にあります。発掘調査により、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や土坑(どこう)などが見つかり、弥生土器や石器などが出土したことから、県内では調査例の少ない弥生時代前期から中期前半(約2,300~2,000年前)の集落であったことが分かりました。 遺跡からは、柱を長六角形に配置した掘立柱建物や、貯蔵施設と考えられる袋状土坑、土器や石器、垂玉(たれだま)、骨片などが出土した土坑などが見つかりました。 これらの遺構からは、弥生土器・石器のほか、ヒスイや蛇紋岩(じゃもんがん)で作られた垂玉や、握りしめた際についた指の跡が残る焼けた粘土塊(ねんどかい)などが出土しました。弥生土器には、外面に縄文を施ほどこすものが大半を占め、東北地方との関連を強く感じさせます。 遺構・遺物の特徴を見ると、縄文時代からの系譜をたどれるものが多く、当地域には弥生時代中期前半まで、縄文時代以来の伝統が色濃く残っていたことが分かりました。 |
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展示全体 |
弥生土器 |
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蛇紋岩・ヒスイ原石 |
垂玉 |
荒町南新田遺跡は、高田平野の西部を流れる青田川右岸の沖積地(ちゅうせきち)にあります。発掘調査により、竪穴たてあな住居や掘立柱建物ほったてばしらたてもの、井戸などが多数見つかり、弥生土器や土師器(はじき)、須恵器(すえき)、珠洲焼(すずやき)、瀬戸(せと)・美濃(みの)焼などが出土したことから、弥生時代後期から室町(むろまち)時代(約1,800~550年前)にかけて断続的に営まれた集落であったことが分かりました。特に注目される飛鳥(あすか)時代(約1,400年前)と鎌倉(かまくら)・室町時代(約800~550年前)の集落について紹介します。 飛鳥時代の集落は、調査区の西側で見つかった川の右岸に営まれ、竪穴住居8軒などが見つかりました。住居東側の壁にはカマドが作られ、周辺からは土師器・須恵器が多数出土しており、当時の人々の日常生活がうかがえます。 鎌倉・室町時代の集落は、平安時代以前の川が埋没した後、川から15m以上離れた場所に営まれており、掘立柱建物40棟、井戸40基が見つかりました。井戸の割合が高いのは、生活用水を川ではなく井戸に求めたためと考えられます。井戸からは、土器・陶磁器のほか、砥石(といし)、石臼(いしうす)、曲物(まげもの)など多数の生活用具のほか、全国的にも井戸からの出土例のない多字一石経(たじいっせききょう)が出土しています。 |
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展示全体 |
飛鳥時代の土師器(甕・支脚) |
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多字一石経 |
陶磁器 |