新潟県埋蔵文化財センター

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開館時間 9:00 ~ 17:00   休館日 12月29日~1月3日

平成21年度企画展示 「平成19年度 発掘調査 新資料展」2

平成21年度企画展示 「平成19年度 発掘調査 新資料展」2

平成19年度に(財)埋蔵文化財調査事業団が発掘調査した遺跡の出土品と写真パネルを展示しています。この機会に、先人が残した貴重な遺物の数々をご覧いただき、新潟県の歴史と文化を肌で感じてみてください。

<4月~9月の展示遺跡>

谷地遺跡(やちいせき)〈村上市〉縄文・中世
東興野遺跡(ひがしこうやいせき)〈村上市〉縄文
西郷遺跡(にしごういせき)〈新潟市〉弥生
北新田遺跡(きたしんでんいせき)〈上越市〉縄文・古墳・平安・中世
北前田遺跡(きたまえだいせき)〈上越市〉弥生・古墳・平安
横マクリ遺跡(よこまくりいせき)〈糸魚川市〉古墳・平安

<10月~3月の展示遺跡>

古津八幡山遺跡(ふるつはちまんやまいせき)〈新潟市〉弥生・古 墳
谷地遺跡(やちいせき)〈村上市〉縄文・中世
山元遺跡(やまもといせき)〈村上市〉弥生
狐塚遺跡(きつねづかいせき)〈阿賀野市〉弥生
西部遺跡 北側 (せいぶいせき きたがわ)〈村上市〉古代
大館跡(おおだてあと〈村上市〉中世

企画展示配置図

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1古津八幡山遺跡
2谷地遺跡
3山元遺跡
4狐塚遺跡
5西部遺跡
6大館跡

古津八幡山遺跡

古津八幡山遺跡は新潟県北部に位置し、信濃川と阿賀野川に挟まれた丘陵上に立地する弥生時代後期の大規模な高地性(こうちせい)環濠(かんごう)集落しゅうらくです。

南北400m、東西150mの範囲から、環濠・竪穴住居・土坑(どこう)・方形ほうけい周溝墓(しゅこううぼ)・土器棺墓(どきかん)ぼ・前方後方形周溝墓(ぜんぽうこうほうけいしゅうこうぼ)が検出されました。環濠は断続的ですが、二重に配置され、深さ約2mです。竪穴住居は大部分が環濠内部や条溝で区画された丘陵頂部にあり、内環濠に囲まれた丘陵最頂部には前方後方形周溝墓があります。方形周溝墓は環濠の外側に位置し、主体部から鹿角装鉄剣(ろっかくそうてっけん)や、アメリカ式石鏃(せきぞく)が出土しました。出土遺物は北陸系・東北系・両者折衷の在地系の3系統の土器が共存し、北陸地方中西部、東北会津地方とつながりをもっていたことがわかります。

弥生時代後期、高地性集落が日本海側にも点々と認められるようになり、本遺跡は北陸系高地性集落として現在のところ最北に位置し、西日本を中心とした社会変化の影響がこの地域にも及んでいたことを示しています。

古津八幡山古墳は古墳時代前期のもので、墳丘(ふんきゅう)約60mの2段築成の円墳で北側に造り出しを持ち、周溝が巡ります。現在分かっている古墳としては新潟県内最大規模です。

古津八幡山遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての社会情勢やその変遷を考えるうえで重要であるとして、平成17年7月14日に約11.6haが国指定史跡に指定されました。

※展示資料は、新潟市教育委員会所蔵資料です。


弥生土器

石鏃・石錐・鉄剣・鉄鏃

弥生土器

礫石(つぶていし)

谷地遺跡

谷地やち遺跡は村上市を流れる三面(みおもて)川の支流、山田(やまだ)川左岸に広がる低湿地(ていしっち)にあります。発掘調査により、縄文時代前期前葉から中葉(今から約6,000年前)の小河川(しょうかせん)周辺で営まれた小さな集落であったことがわかりました。当時の川跡(かわあと)に沿うような形で住居、屋外炉(おくがいろ)、土坑(どこう)などが見つかりました。炉の周辺には石器や土器片が、土坑内からは伏せられた土器やばらばらに壊れた土器が出土しています。

土器には、縄文時代前期に特徴的な羽状縄文(うじょうじょうもん)、撚糸圧痕文(よりいとあっこんもん)、爪形文(つめがたもん)、網目状撚糸文(あみめじょうよりいともん)、斜縄文(しゃじょうもん)、ループ文など、多様な文様(もんよう)が施されています。

石器には、石鏃(せきぞく)、石錐(いしきり)、削器(さくき)、石匙(いしさじ)、箆状石器(へらじょうせっき)、磨製石斧(ませいせきふ)、石錘(いしおもり)、磨石(すりいし)、石皿(いしざら)、管玉(くだたま)がありますが、側縁(そくえん)を使った磨石が多いことが特徴です。これは、縄文時代早期の終わりから前期に、木の実などを磨すり潰つぶして利用することが盛んになったためという説があります。


縄文土器(前期)

縄文土器(前期前葉~中葉)

石錘・磨製石斧・石皿

石鏃・玉・石匙・石錐

山元遺跡

山元遺跡は、旧岩船(きゅういわふね)I潟を中心に広がる低地に向かって北東から南西に延びている丘陵上に位置し、遺構のある標高は約40m、周辺の低地との比高は36~37mです。

調査により、弥生(やよい)時代後期(約2,000年前)の日本海側最北の「高地性環濠集落(こうちせいかんごうしゅうらく)」であることがわかりました。

遺跡は谷を隔てて3か所の平坦面に分かれています。北側からA・B・C地点としています。A地点は土坑墓(どこうぼ)のある墓域、B地点は環濠(かんごう)や縦たて堀ぼりなどのある居住域で、主な生活の場であったと考えています。

A地点で見つかった土坑墓 (SK1)からは、多量のガラス小玉が見つかりました。完全な形をしたものが68点出土しており、副葬品(ふくそうひん)(首飾くびかざり)として死者が身につけたまま埋葬(まいそう)されたと推定しています。

B地点で多く見つかった弥生土器は、外面に縄目(なわめ)の文様(もんよう)が施された「東北(とうほく)系」のものが圧倒的に多く、北陸(ほくりく)北東部系や北海道(ほっかいどう)の続縄文土器(ぞくじょうもんどき)がわずかに見られます。このことから、この遺跡は東北系土器(とうほくけいどき)文化圏(ぶんかけん)に含まれると考えられます。

これまで日本海側最北の高地性環濠集落は新潟市秋葉(あきは)区の古津八幡山(ふるつはちまんやま)遺跡でしたが、本遺跡の発見により、阿賀野(あがの)9川を越えて北部にも存在することが明らかになり、「東北系土器文化圏(とうほくけいどきぶんかけん)」で初めて確認された高地性環濠集落(こうちせいかんごうしゅうらく)として注目されています。


ガラス小玉

弥生土器(東北系)

管玉・アメリカ式石鏃・石鏃・石匙・小型特殊製品

弥生土器(北陸系・畿内系・続縄文)

狐塚遺跡

狐塚(きつねづか)遺跡は、阿賀野(あがの)川の右岸の沖積地(ちゅうせきち)上で標高12mの自然堤防上に立地します。上層では12~14世紀の中世の集落跡、下層からは弥生時代中期後半の土坑墓(どこうぼ)が11基発見されたことから、墓地と考えています。

土坑墓は約10×10mの狭い範囲にまとまって発見されています。多くの土坑墓からは、小型で完形に近い土器がまとまって出土しました。文様や器形きけいに東北北部(秋田県・宇津台(うつのだい)式)、東北南部(福島県・川町口式0原(かわはらまちぐち))、北陸(石川県・小松式)の影響を受けており、当時の活発な交流の様子をうかがえます。残念ながら、墓地を作った人たちが暮らした集落は、平成19年度の調査範囲では発見されていません。


土坑墓の弥生土器出土状況・土坑墓群の分布状況

弥生土器

弥生土器

弥生土器

西部遺跡

西部(せいぶ)遺跡(北側)は、荒(あら)川河口に近い右岸自然堤防の後背湿地(こうはいしっち)にあります。遺跡の北側に広がる平安時代(約1,200年前)の水田は、東西・南北方向に基軸となる大畦畔(だいけいはん)が南北約55m、東西約65m間隔で碁盤(ごばん)の目め状に配置され、その区画を中小の畦畔でさらに細かく区画していました。大畦畔下の一部には、畦畔を築く時の盛土の中から粗朶木(そだぎ)の束を検出しました。大畦畔が交差する地点では、直径4mほどの範囲に土師器はじきや須恵器(すえき)の砕片(さいへん)と炭化物が多量に出土しました。土器の破片は、大畦畔上、もしくはその範囲で、大畦畔の構築に伴って破片の状態で散布された可能性があります。炭化物集中部の性格は不明ですが、水田に伴う何らかの祭祀(さいし)が行われた跡かもしれません。また、「圓(えん)(円の旧字体)」と書かれた須恵器の蓋(ふた)をはじめ、墨書ぼくしょ土器が20点以上出土していて、水田を営んでいた集団の中に識字層(しきじそう)(文字の読み書きができる人物)の存在が予想されます。


須恵器・墨書土器

土師器・須恵器

緑釉陶器(畿内産)

墨書土器

大館跡

大館跡(おおだてあと(は、三面(みおもて)川水系の小谷(こたに)川左岸にあります。

遺構は、堀(ほり)3条、土塁(どるい)2基、井戸2基、溝(みぞ)1条、性格不明遺構3基などがあります。多くの遺物は館の周囲を巡る堀から出土し、青白磁(せいはくじ)・青磁(せいじ)・白磁(はくじ)・青花(せいか)といった中国から輸入された陶磁器(とうじき)と、珠洲焼(すずやき)・越前焼(えちぜんやき)・信楽焼(しがらきやき)・瀬戸焼(せとやき)・美濃焼(みのやき)・土師質(はじしつ)土器などの国産の焼物、鉄鍋(てつなべ)や銭貨(せんか)、漆器(しっき)を含めた多量の木製品などがあります。木製品には、舟形(ふながた)や刀形(かたながた)、梵字(ぼんじ)の記された木簡(もっかん)などの祭祀具(さいしぐ)があり、館で祭祀が行われていたことを示しています。

また、内外面赤色の漆(うるし)が塗られた皆朱漆器(かいしゅしっき)や京都産土師質土器、大型の鉄鍋などは、一般の集落では見ることのできない稀少品です。

大館跡が村上市周辺地域で最大級規模の方形居館であることから、大館跡の館主は小泉荘(こいずみのしょう)(現在の村上市村上地区)を治めていた本庄氏(ほんじょうし)など有力な国人領主(こくじんりょうしゅ)クラスの人物であったと考えられます。


赤漆椀・下駄・曲物・風炉

土器・陶磁器・鉄製品(鉄鍋)

木簡状製品

木簡・舟形・硯台
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