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1 | 野地遺跡 |
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2 | 道下遺跡 |
3 | 道端遺跡 |
4 | 中曽根遺跡 |
5 | 用言寺遺跡 |
野地遺跡は、越後平野の北東部、胎内川が形成した扇状地上にあり、「どっこんすい」と呼ばれる伏流水が自噴する地域にあります。
発掘調査の結果、直径約50~55㎝の柱を持つ掘立柱建物、石囲炉を持つ竪穴住居、ヒスイの玉を身に付けた縄文人を埋葬した墓穴、オニグルミ・トチノキ・クリなどの殻の集積などが見つかり、縄文時代後期中葉から晩期前葉(今から約3,500~3,000年前)の長期にわたって営まれた、この地域の拠点集落であったことがわかりました。
本遺跡では土器や石器だけでなく、狩猟に使った弓や、人々を華やかに飾っていた赤漆塗竪櫛・腕輪耳飾なども出土しており、縄文人の豊かな暮らしをうかがい知ることができます。
注口土器 |
さまざまな土器(中央:赤漆塗土器) |
装身具(上:玉類、下:赤漆塗耳飾) |
磨製石斧 |
道下遺跡は、越後平野の北東部、胎内川が形成した扇状地の先端部にあり、「どっこんすい」と呼ばれる伏流水が自噴する地域にあります。
発掘調査の結果、石囲炉を持つ竪穴住居や、調理のために屋外で火を焚いた跡と考えられる焼土遺構、縄文人が日常生活で使用した土器・石器、食料としていた獣や魚の骨、植物種実などが見つかり、縄文時代晩期前葉(今から約3,100~2,900年前)の集落であったことがわかりました。
この時期、周辺の遺跡では掘立柱建物を住居としていることが一般的でしたが、本遺跡で初めて越後平野の低地に竪穴住居が確認され、縄文人の住まいの在り方が今後の課題となっています。
縄文土器(鉢、深鉢) |
石囲炉 |
石製品(敲石、石鏃ほか) |
石製品(石匙、石錐ほか) |
道端遺跡は、越後平野の北東部、荒川左岸の微高地上にあります。
発掘調査の結果、弥生時代中期後半(今から約2,000年前)と古墳時代後期前半(今から約1,500年前)に、人々が小河川に沿って集落を営んでいたことがわかりました。
特に、弥生時代中期後半の集落では、竪穴住居や平地式住居のほか、イネ科植物を刈り取った痕跡の認められる磨製石包丁や大型直縁刃石器、周溝や炉に残された炭化したアワ・ヒエ・イネ、籾の痕が残る土器片などが出土しており、この地域の稲作農耕やそれを支えた人々の暮らしを知る貴重な手がかりを得ることができました。
古墳時代の土器 |
弥生土器 |
砥石(左)、石製紡錘車(右) |
大型石包丁 |
中曽根遺跡は、越後平野の北部、胎内川によって形成された扇状地の先端部にあります。
発掘調査の結果、弥生時代中期末~後期初頭(今から約2,000年前)と、奈良・平安時代(8世紀中葉~10世紀前葉)に、人々がこの地で活動していたことがわかりました。
弥生時代の集落では、住居から東北地方の影響が見られる弥生土器が出土しており、これらの土器を使う人々の住居の調査例が少ないことから、貴重な発見となりました。
また、平安時代の集落では、掘立柱建物や井戸、土坑などが見つかり、河川沿いに営まれた一般的な集落であったことがわかりました。
奈良・平安時代の土器 |
弥生土器 |
墨書土器 |
弥生時代の石製品 |
用言寺遺跡は、高田平野を流れる矢代川により形成された河岸段丘上にあります。
発掘調査の結果、掘立柱建物と井戸から構成される居住域と、水田と見られる生産域が並ぶように発見され、鎌倉~室町時代(今から約800~600年前)の計画的につくられた集落であったことがわかりました。
特に注目されるのは、集落内のひとつの井戸からまとまって出土した12世紀中ごろの中国製白磁です。質・量ともに充実しており、陶磁器の研究において貴重な資料となります。
白磁 |
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珠洲焼(甕、片口鉢ほか) |
青磁(左)、天目茶碗(右) |