古墳時代の中頃(5世紀)、灰色をした硬い焼き物を作る技術が朝鮮半島から日本に伝わりました。この焼き物は「須恵器」(すえき)と呼ばれ、技術が伝わった当初は、近畿地方などを中心に作られていました。しかし、古墳時代の終わりごろ(6世紀)から、須恵器を作る技術は日本各地に広がっていき、飛鳥時代の終わり頃(7世紀末)には、新潟県でも作られるようになっています。
今回の企画展示では、新潟県において、現在知られている最古の須恵器を焼いたと考えられる三島郡出雲崎町の「梯子谷窯跡」(はしごだにようせき)、越後国府との関連も深いと考えられる上越市の滝寺(たきでら)・大貫古窯跡群(おおぬきこようせきぐん)を取り上げ、古代の須恵器窯跡を特集しています。古代の工業地帯とも言える窯跡からの貴重な出土品を、是非ご覧ください。
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1 | 梯子谷窯跡 |
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2 | 須恵器窯の変遷 |
3 | 滝寺古窯跡群 |
4 | 大貫古窯跡群 |
<展示の様子> |
梯子谷窯跡は、新潟県において、現在知られている最古の須恵器を焼いた窯(かま)の跡です。遺跡は、三島郡出雲崎町乙茂にあり、島崎川左岸の丘陵斜面に広がっています。国道116号出雲崎バイパスの建設に伴い、1985年と86年に発掘調査が行われました。 調査の結果、須恵器窯1基と、竪穴建物(たてあなたてもの)6棟、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)5棟などが発見されました。出土遺物には焼き損ねた大量の須恵器の甕(かめ)やお椀、蓋(ふた)があります。また、竪穴建物からは、煮炊きをするための素焼きの土器<土師器(はじき)>のお釜が見つかっています。この他、海水を煮詰めて塩を作るための土製の塩釜<製塩土器>も見つかっています。 出土品などから判断すると、ここでは7世紀末頃に須恵器の生産が行われたようです。そしてその後、窯は廃棄され、8世紀前半頃になると、人々は竪穴建物や掘立柱建物の立つ小規模な集落を作り、土師器生産や炭焼き、製塩などの営みをしていたと考えられます。 須恵器作りや塩作りには、大量の薪や粘土を使用することから、地元の有力者がこれに関わっていたことが想像されます。 |
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<出土した大甕> |
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<杯蓋と有台杯> |
<展示の様子> |
<展示の様子> |
<須恵器の移り変わり> |
このコーナーでは、「梯子谷窯跡」・「滝寺古窯跡群」・「大貫古窯跡群」のそれぞれの出土品を並べて展示しています。 似たような器でも、作成時期の違いによって、底の形や器そのものの形が変化していきます。その時々の先人の知恵や工夫が違いとなって表れているのです。 是非実際に展示をご覧になって、その変化を確かめてみてください。 |
<展示の様子> |
<円面硯を使った仕事の様子(想像図)> 上越市の頸城平野一帯は、古代の行政区分では越後国頸城郡と呼ばれ、越後の国府が存在したところとされています。当時の国の役所や村は平野部にあり、須恵器窯などの生産地は頸城平野の西側と東側の丘陵一帯に点在しています。 近接して存在する滝寺・大貫古窯跡群は、西側丘陵一帯のグループの中で最も海岸よりにあり、小さい谷の間に位置しています。これらの遺跡は上信越自動車道の建設に伴い、1997年に発掘調査が行われました。 滝寺古窯跡群には15基の窯跡が確認されており、その内高速道路用地内の8基の調査を行いました。窯跡は2つの沢に分かれて分布しており、西側沢の西向き斜面には3基が、東側沢の両斜面に5基が非常に狭い範囲に密集して作られています。 窯は急な斜面を溝状に掘りくぼめ、粘土で天井を貼ったトンネル状の「あな窯」です。下方で火をたき、トンネルの中で須恵器を焼きます。急な斜面では、工人たちは足場の確保や、わき水に悩まされたようです。ぬかるむ場所に板を敷いたり、排水路を作ったりするなどの工夫をしていたことが分かっています。 |
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<出土品の数々> |
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<円面硯> |
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遺物は液体をためる甕、壺、瓶(へい)や食器の杯(つき)・蓋(ふた)などが多量に出土していますが、注目すべきは、灰原(はいばら)(焼き上がりの良くない須恵器を捨てた場所)から出土した円面硯(えんめんけん)です。当時硯(すずり)は、役所や寺院など特別な場所で使われたと言われていますが、水鳥の装飾などがついた残りの良いものは越後では初めての出土です。 滝寺古窯跡の円面硯については、埋蔵文化財センターの管理を委託している(財)新潟県埋蔵文化財調査事業団のホームページでも紹介しています。 |
<展示の様子> |
大貫古窯跡群は、滝寺古窯跡群の南方約300mにあり、尾根をはさんだ2つの小さな沢の中に3基分布しています。窯跡の他には、作業に使われたと考えられる土坑(どこう)や通路状の溝などが見つかっています。 窯は、滝寺のものと同じ形状の「あな窯」で、壁面には対火度を高めるためにスサ(植物繊維)を含んだ粘土を貼り付けていました。窯跡の前の沢は、失敗した製品や窯から掻き出した焼土などが大量に捨てられ灰原となっています。この灰原から出土した遺物を見ると、大貫の窯では杯などの食器や甕・壺などの貯蔵具が主に生産されていたことが分かりました。また、数は少ないですが、硯なども作っています。 大貫では、小型の食器の杯や杯蓋などにヘラで記号を刻んだ刻書土器(こくしょどき)が出土しています。この記号は、製作工人の製品の識別のためのものとする説が主流です。大貫では「×」などの記号の他、「得」「三百●」などの刻字をされたものが見つかっています。 |
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<出土品の数々> |
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<刻書土器> |