平成16年度に調査を行った9か所の遺跡の中から
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←入口 |
1 | 昼塚遺跡 |
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2 | 西川内南遺跡 |
3 | 西川内北遺跡 |
4 | 三角田遺跡 |
5 | 大坪遺跡 |
注口土器 |
昼塚遺跡は、胎内川が形成した扇状地上にあります。 縄文時代晩期(今から約3,000年前)の小規模な集落であったとみられ、地面に穴を掘って直接柱を立てて造った掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)6棟や、貯蔵穴と考えられる20数基の土坑(どこう)が密集して見つかりました。 低湿地での居住に適した掘立柱建物は、6本柱で亀甲形(きっこうけい)に建てられるのが一般的でした。 土坑から出土した注口土器(ちゅうこうどき)(液体を注ぐための筒状の口がある土器)は、東北地方に広く分布した亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)の影響を強く受けた優品です。 このほか、複数の土坑からオニグルミ・トチノキの木の実が見つかったことから、これらの木の実の加工作業が行われていたと考えられます。 |
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石鏃 |
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石器 |
展示の様子 |
西川内南遺跡は胎内川の扇状地上にあります。 古墳時代前期(今から約1,700年前)の祭祀に関係すると考えられる高床(たかゆか)式の建物や、集落の中心施設と見られる円形周溝状遺構(えんけいしゅうこうじょういこう)が見つかりました。 この周辺からはお祭りに使われた舟形(ふながた)木製品や小型銅鏡(こがたどうきょう)、勾玉(まがたま)などが出土したことから、紫雲寺潟(塩津潟)周辺の中核的な集落であることがわかりました。 特に注目されるのは小型銅鏡です。古墳時代前期の集落から出土する銅鏡の例は、県内では蔵王遺跡(ざおういせき)(佐渡市)の2面のみと少なく、ここに暮らした人々の力の大きさを物語っています。 遺跡の南側約1kmの地点には、阿賀野川(あがのがわ)以北の地域で唯一の前期古墳である城の山(じょうのやま)古墳(円墳、直径46m)があります。この集落の人々が、この古墳を造ったのではないかと推測されています。 |
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舟形 |
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銅鏡 |
展示パネル |
西川内北遺跡は、胎内川の扇状地上にあります。 両側に側溝を持つ奈良時代(今から約1,300年前)の道路跡が見つかりました。この道路は東西に延びており、西側は紫雲寺潟(塩津潟)や海岸沿いの砂丘方面へ、東側は現在の新館集落方面に続いているようです。 また、小さな川のそばから掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が5棟見つかりました。川の中からはこの建物から捨てられたたくさんの土器が出土しました。この中には東北地方北部の影響を受けた甕も見つかりました。 当時の胎内川や加治川は、砂丘にさえぎられて荒川や阿賀野川と合流していました。越後平野は川と潟がつながっており、内水面交通も盛んでした。東北地方北部の文化は日本海を南下し、こうした水路や道を通ってこの集落へ伝えられたのでしょう。 |
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土師器・須恵器 |
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杯と杯蓋 |
展示の様子 |
三角田遺跡は高田平野のほぼ中央部、関川右岸の自然堤防上にあります。 調査の結果、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や畑の跡が見つかり、奈良時代(今から約1,300~1,250年前)と奈良から平安時代(今から約1,250~1,000年前)の2つの時期の集落が重なっていることがわかりました。 奈良時代の集落は、洪水の土砂に覆われていたため非常に良好な状態で残っていました。掘立柱建物と畑が近接して存在することから、住居の脇で畑を耕しながら暮らす当時の一般的な人々の姿をうかがい知ることができます。 また、洪水のあとには集落が断続的に営まれていたことが明らかとなり、高田平野開発の歴史を解き明かす貴重な情報を提供してくれそうです。 |
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土器 |
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硯・木簡 |
展示の様子 |
大坪遺跡は東側に五頭山を望む阿賀野川右岸の自然堤防上にあります。 平安時代末(今から約1,000年前)から鎌倉時代(今から約800年前)に建てられた大規模な掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が見つかりました また、非常に高価であった中国や朝鮮からの輸入陶磁器が多数出土しました。このことから、社会的地位の高い人物が暮らした屋敷跡であると考えられます。 当時の下越地方では地方豪族の城(じょう)氏が盛んに荘園の開発を行っていました。遺跡のある阿賀野市に相当する地域には、白川荘(しらかわのしょう)と呼ばれる荘園がありました。これを管理していたのが「白川御館(しらかわのみたち)」と呼ばれていた城四郎長茂(じょうしろうながもち)とされます。 この遺跡は白川荘のはじまりや記録に見える城氏の盛衰と一致することから、城氏と関係した遺跡ではないかと考えられます |
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土器 |
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輸入陶磁器 |